制約の中での無限

さて皆さん、内にあるものと外にあるものの、どちらに魅力を感じますか?


ここ数週間の出来事をふりかえってみますと、自粛といいながらの限られた暮らしになっております。押しつけられた制約ではありますが、元々、内向的なので人との接点が少なくなるというのにストレスは感じておりません。それに、表現というものは、装置という限られた道具をつかって、無限の世界を内的つくりだす作業といいかえることができるもので、究極は、カラダという装置ひとつでそれをおこなう舞踏みたいなものに憧れを抱いてしまうのです。


今回、多くの人がネットを介して、自宅から映像を配信していることに対して、あぁ人類はここまできたのだなぁと、感慨深く思うわけです。つい最近まで海外から中継してリアルタイムでみれる映像の裏には、太いケーブルで様々な装置を介して、専用車についた大きなパラボラアンテナから、宇宙に漂う衛星に跳ね返り、それをキャッチして、また様々な装置をとおして、お茶の間に届けられていたのですから、それを想像すると、すごい進化を遂げているのですね。そう考えるとすでに人類は、実体の無い無限世界に浸っているといってもいいと思うのです。ただそれも、この頃は、ネットに依存している段階からもっともっと、瞑想的な内面へと進化してゆくように感じませんか?


私事ですが、この一年で身辺整理をおこなってきました、一年かけて、そうとうな物量の道具を手放し、長年使ってきたアトリエともようやく別れの時がきました。なにか、いままでのこだわりや物事から解放されたいし、内的な無限世界は、からっぽな空間が必要だし、棺桶に詰められるぐらいの量のモノで生きてゆくようにしたいのです。ノイズと雑念から逃れるにはまだまだですが、まずできることを行動するようにしたいのです。


よく私に対して、自由でいいですねぇ、などと揶揄する人がいますが、毎回なにも分かってくれていないのだな、この人は、と思うのです。だいたい、自分がつくりたい世界は、大抵、その枠から抜け出られなくて壁に囲まれた小さな部屋で、もがいているようなものですし、技術もお金も時間も無いものだらけで、全てをやらなくてはいけないのです。こんな性分でなければ、この人生をもっと楽しめただろうにと噛みつきたくなるのです。でも、他者から自由そうにみえるというのは、悪くとらえずに、その人の制約からは大きくはずれた生き方が出来ていることをもっとポジティブに褒めてやってもいいのだなぁと無理矢理そうするように心がけております。


さて、こんなご時世ですから、有限である日常について考え、身近な物事をよく観察するとみえてくる内的な世界にふれてみる時間をつくってみてはどうでしょうか? いろいろとありますね。では。

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